とみじま の史跡・寺社・行事

富島に関係のある、史跡等です表の中から選んで下さい。


鬼頭熊次郎の碑通水記念碑八丁沖古戦場パーク中川文蔵の碑
日光社諏訪神社十二神社富島保育所
富島公園二十三夜塔少年相撲大会青年会
西福寺飛島観音宝珠院飛島村
神楽舞金刀比羅塔富島小学校米山塔
秋祭り春祭り盆踊り大会賽の神


































飛島村(富島町)の誕生

古志郡富島村の山岸家の祖先は、西蒲原郡荒石の城主なり。
永久年中、当主山岸式部信照は後鳥羽上皇の味方となりて敗して後、
ふもとの民間に入り一村を開墾して、姓を延べて山岸村とす。
全村大方山岸姓なり。

永久年中、故ありて当主兵左エ門は一族のうち7人を随ひ飛島へ来たりて、
水利をはかり一村を開発して現今百余戸の村立となる。
貞治年中より上杉憲顕の一将、五百川縫殿、当地に築城に
際しあずかりて大いに功労ありし故に、其の地のおさにあげらるるの書付を有す。

                        (温古のしおり 第35編 明治25年12月)


越後国古志郡富島村 村誌

本村は往古より 本郡に属す、年号不祥、大島の庄、川崎郷、飛島村と言ふ。
慶長3年戊戌8月3日、堀氏領主検地あり、其の後、牧野氏領主の時、正保
3丙戌年8月5日検地あり、年号不祥なれども富島村と称う
境 域
東は同郡浦瀬村と耕地の田畔或は川を以って境し、
西は同郡亀貝村と用水川の江廻り耕地の田畔を以って境し、
南は同郡宮下村・小曽根村と用水川又は耕地を以って境し
北は同郡福島村田尻新田と西川又は耕地の作場道を以って境し、
猿橋川の水源八町川をへだてて同郡福井村野方に対す。
幅 員
東西9町4間 南北18町20間 面積不祥
戸 数
本籍 109戸 雑社 4戸 寺 1戸 堂 1字
総計 110戸
(明治9年1月1日調べ)富曽亀民俗誌より



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さいの神

●サイノカミ
1月15日夕方の火祭り
●サイノカミカンジン
もとは14日の昼に燃やすものを集めて
「さいの神の勧進だ。藁でも 萱でもくれてくれ」
と言って子供達は村中へ貰いに廻った。
●さいの神のジサ・バサ
15日には雪の台を作ってその上に竹を芯にして藁や萱などを、積み上げる
年神の注連飾りも集めて燃やす。
ススハキオトコも燃やす。
雪の台のところにアキノカタに穴をあけて、爺さ婆さの藁人形又は大根人形
を作って祭る。これにお明し、御神酒、みかんなどを供える。
火をつける前には法螺貝を吹きならして村中に知らせる。
火をつけて次の唱え言をしながらはやす。
「サイノカミノカンジン子 めくらっこに火たかして 火事だしたげな、
じじ ばば まめでいてくれ」
もとは初子の男子の生まれた家がさいの神の建て元になった。
子供の書き初めをこの時に燃やして高く上がれば手が上がるとした。
●サイノカミ
大人のヤクオトシとして厄年の男25才と42才、女19才と33才の
人達ほこのサイノカミに詣ったし厄年の人たちもサイノカミを作った。
又、すべての災厄払いであるとて大人も詣って其の年の災厄無きを祈った。
サイノカミの火で餅を焼いて空と年中病気をしないし、子供の小便たてが
治る。
パンパンパンと3っつ竹の燃え割れる音が良いとその年は上作。
燃え残りを夕顔などのクネギにするとなりがよい。
                                    (富曽亀民俗誌)

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十二神社と稲荷社

二社共に宮下村地境の屋敷添にあって、諏訪社と共に日光社へ合併して、其跡は堤外で立派な田にになっている。
稲荷社は古くから講中があって、講中の人達が交互に伏見の稲荷や、豊川稲荷を参拝して、農村の安泰と、
豊作を祈っていた。この二社にも若干の神田があって耕作者が籤引でたがやして其人達が、神社の世話を
していた。

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諏訪神社

諏訪神社は古くからこの村の鎮守神として、村人が一様に祟敬してきた神であった。
神社は村の東北字古村のたのなかにあったが、日光社が鎮守の跡地打というのであるから、牧野氏が日光社
を造成する時、諏訪神社をここへ移したものと思う。
神社は其後日光社へ合併したので其跡地は、立派な田になっているが、田の中には今も大きな御手洗野石が
のこっている。
又神社には諏訪めんという神田であって、毎年春の寄合いにくじ引きでこの田をつくって、お祭りや其他の
神の行事を受け持つと同時に、豊作の年には酒盛の宿をして亭主と若者が別れて農家が総出で、持参の肴で
年に一度、盛大に祝ったものである。

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寺 西福寺

本堂は未申に向ひ東西7間、南北7間、
庫裡は未申に向ひ東西5間南北3間3尺、
寺地は東西17間3尺、南北17間、見捨地、無高反別1反歩
真言宗 紀伊国 高野山山本中院 谷明王院末寺、同宗寺格 格院
其の後衰微せしを、永禄2年甲子、同寺7世の僧宥教、更に中
興す。
本尊上品阿弥陀如来、檀家101戸
北越古城記に五百川氏の飛島城のことが書かれている

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日光社

徳川家康は、1616年(元和2年)79才でこの世を去った。
幕府は朝廷へ神号を賜るやう奏請して、東照大権現の称号が贈られ
たので、直ちに下野の日光へ祖廟を建てて、翌年1回忌を行うた。
1645年(正保2年)東照宮の宣下と共に勅使が差遺され、幕府
は全国の諸大名より、一般の民衆にいたるまで、家康の偉大さをた
たえる権現様思想をうえつけたのである。
依って牧野忠成翌年1646年(正保3年)、富島の地へ、日光社
をたてて、東照権現の分霊をまつって、家中はいうまでもなく、領
内一般に至るまでよく其の徳をつたえ、且つ質実剛健の気風を養う
ことにつとめた
日光社は村の中央字屋敷添にあり、元木村鎮守のあった所で牧野忠
成は、20石の田地を寄付して宝寿院をおき、祈願所として代々崇
敬のやしろとして重きをなしていた。
然るに明治戊申の役に兵火の為に社殿は全焼したが、社頭には牧野
家奉納の大鳥居が、今も残っている。
火災以前は広い境内は神々しく茂って、遠くから見ても富島日光社
の森と誰しも一目でわかる程崇高なものであった。
其後度重なる台風の為に、次々に倒れて、今は数本の欅の古木がま
だ若い樹々の間に残っている


( 飛島の里より)
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宝寿院
一六四三年(天保三年)牧野家が富島村の地へ日光社を建立すると共に、田地
二〇石寄付して、社守に宝寺院を置いて、これを、牧野家の祈願所とした。
日光社境内の西北隅にあったが牧野氏領地返還と共に其跡は絶えた。
庭園の一部であるといわれていた笹山はいつまでも其跡をとどめていた。

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鬼頭熊次郎の碑

1868(明治元年)7月24日長岡城奪還の戦いに前哨兵
として道案内をした鬼頭熊次郎正業は鬼頭沙山の弟にて、長岡
藩の中堅の武士であった
常に剛健を以ってその名は聞こえたが、暇のあるときはいつも
八町沖で、釣りを楽しんだ、故に土地の状況に詳しい為、川島
隊長の命を受け渡河作戦の先頭に立ち、富島に上陸した。

村端れの神社の森陰に西軍の田の口藩の兵士数名、まちかまえ
ているのを見て、熊次郎は踊り出て先頭に立ち、刀を抜いて一
人を斬り、尚とりでに突入せし時、敵弾がその胸を貫いた、居
合わせ村人渡辺権左エ門の父、介抱したがすでに絶命していた。
時に熊次郎41才であった。

長岡西願寺に葬られてあるが、富島では日光社境内西北隅に、
石碑を建てて其の名を留めた。
1917年(大正6年)故人の50回忌の際、親戚福島甲子三
が新しく石碑を日光社境内に建てて法要を営んだ。
最初の碑は現在の碑の裏に埋められている。
(飛島の里)
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少年相撲大会

いつごろ始まったものかわからないが、昭和59年迄続いた。
出場選手は、小学校1年から中学校1年までの男子のみで、
中学校2・3年がそのすべてを、取り仕切る。
まず、土俵づくり、猿橋川の大回りへ川砂を取りに行く、上級
生の中には、飛び込みをしたり、魚つかみをして、全体的には
わきあいあいだったように思う、取った砂はリヤカーに載せて
お宮の横の空き地まではこんだ。
はじまは、日光社に向かって右側の空き地に土俵を作ったが
後に、広場側に移った。



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中川文蔵の碑
戊申戦争のおり、長岡勢は、7月24日長岡城を奪還する為見附
に集結し、日没7時30分特に精鋭なるものを選抜して前哨兵と
して鬼頭熊次郎を先頭に中川文蔵も富島に上陸した。
老僕辰蔵は文蔵の戦死までを次のように語った。
25日暁の戦いで銃丸を受けて、重傷をおい民家(安井一英)へ
のがれ手当を受けたが再び長岡城が落ちて敵の追撃が急になった
のを知り、このまま首級を敵に渡すのを潔しとせず、はい刀を遺
品として辰蔵に托し、河に(西山市郎宅東)身を沈めたのである
が戦争最中の混乱にて辰蔵は、遺体を引き上げることもできず、
涙ながらに別れを告げ、托された刀を遺品として持ち帰った。
時に中川文蔵38才であった。
1917年3月(大正6年)中川文蔵50回忌の時親族一同にて
日光社入口東に石碑を建てた。
(飛島の里)



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二十三夜塔

金塚にめずらしい程大きな二十三夜塔が建てられてる。
文久2年春、五穀豊穣、農家安全の祈りをこめて、志
し寄進で惣百姓と若連中で建てたので、世話人の他に
安井善三郎外寄進人の名が塔の背後に連ねられている。
6月23日のお祭りには、村中で、笹団子やちまきを
作ってここでは若い者達が夜108灯をつけて勢いの
良い太鼓の音がなり響いている。
(飛島の里)

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青年会

明治37年、時代を担う農村青年の教育目的に
「富島益友会」が結成された。
冬季間・農閑期を利用して、夜学や弁論会で知識の
導入をはかった。

夜学会は亀貝・宮下とともに学校区の事業になり
「三か字連合夜学会」と称して長く続いた。

益友会は15歳〜25歳くらいで、村に大きな役割を果たした。
1.稲刈り時期の稲番
2.渇水期の水番
3.春祭りの支度
4.盆過ぎの道削り

秋の取り入れが終わると、稲番をした謝礼「稲刈り代」を貰い
「若者宿」を借りて3日間自炊して楽しんだ。

いまの「富島青年会」は平成4年、安井昭宏を
初代会長に発足し現在に至っている。

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八丁沖古戦場パーク

八丁沖は、長岡の東北郊外、百束、大黒あたりから、南は富島、
亀貝にいたる南北約5キロ東西3キロにわたる大沼沢地であった。
 河井継之助は、長岡城奪回のため、長岡全軍の力を一つにして、
この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画した。
 そして、慶応4年(1868)7月24日午後7時ごろ行動を開始し、
全軍600余名声をひそめて潜行し、7月25日未明に富島にたどり
着き、大激戦のすえ宮下の新政府軍前線基地を占領した。
さらに、全軍を4手に分け、長岡城めざして猛進撃に移った。
 不意を突かれた新政府軍は、必死に防戦したが、昼すぎには勝敗
は明らかとなり、長岡城の奪還に成功した。
 継之助のこの八丁沖渡河作戦は、この方面の防備が手薄なのを察
知し、巧みにその虚をついた作戦として、現在でも高く評価されている。
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富島小学校

戊辰の硝煙のまだ消え去らぬ明治4年の頃長岡の北東、富島の地に子弟の教育について目覚めた先覚者がいた。
ちょうどその頃、明治4年に柏崎懸の参事、南部彦助と学務係の辻新二の両氏が、学校設立のことについて各村を
説いてまわったことがあった。
当時、長岡藩には与荷米というのがあって、富島村には数表の米があった。もともとこの米は、長岡藩の所有であった
のが廃藩置県の結果、柏崎県の所有に移されていた。とは云ってもその米はもとは村民が納税の徴収以外に収めた
ものであった。富島の教育に目覚めた先覚者はこの米をもとにして学校をたてよう請願した。
特に安井善左エ門氏の努力によってこの米を無代で払下げを受けて、その米を売り、得た金37.8円をもとに学校を
設立したのである。

初代校長 小林萬平 (明治17年10月〜大正14年3月)

昭和29年2月 閉校式(84周年)


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富島保育所

昭和31年に富曽亀小学校に完全移行後は、この地区の保育所として使われた。
亀貝、富島、宮下、福島の一部で、年齢別で多い時で、各2クラスあった。

校舎西側には、5本の「つっかえ棒」のようなものがあり、富曽亀小学校に行ったころ、
よく、富島は傾いているから、「つっかえ棒」があるといわれたので、新保はガラスが無くて
「障子戸」なんて、悪口を言い合っていた。



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金刀比羅塔

日光社、参道左に金刀比羅塔がある。
裏に「金刀比羅社」、左右の脇に「明治17年10月」
「世話人 安井二平、安井音蔵、渡辺杢蔵」の
刻銘がある。




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